金融庁 採用案内 2013-2014
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TALK SESSIONRyozo HiminoHidenori MitsuiHisashi OnoKiyotaka Sasaki―1983年、大蔵省(当時)に入省した同期4人は、今や金融庁の幹部。入省当時の状況について話を聞いた。氷見野  私たちが入省した当時は、日米円ドル委員会など海外からの働きかけもあり、日本の金融自由化が本格化した頃でした。その後、プラザ合意があり、バブルが始まり、そして弾けた、そういう時代でしたね。小野  かつての金融行政は護送船団方式ということで、金利をはじめ規制がかけられ、大きな制度の変化はありませんでした。それが、規制緩和・金利自由化・国際化のなかで、国内だけでやっていればよかった日本の金融というのが、グローバリゼーションの中に取り込まれ、あれから金融をめぐる環境が大きく変わりました。佐々木  当時、銀行は規制により守られたドメスティックな存在でしたね。しかし、バブルを機に急速に海外へ進出するなど、この30年で本当に変わりました。 バブルが弾けてからは、不良債権問題などに絡んで大きな事件がいくつも起きました。私が最初に経験したのは、91年の証券会社の損失補填事件。国会で大々的に追及され、当時証券局の課長補佐だった私も、毎日のように国会に駆り出されていました。そして97年には住専や銀行の不良債権問題が深刻になり、更に大蔵省の接待汚職が発覚、ついには大蔵省が財務省と金融庁に分離される、我々にとっても激動の時代でした。あれから30年。―こうした事件を経て、金融庁が誕生した。4人にその当時を振り返ってもらった。佐々木  発足当時、まだ400人弱くらいの小さな組織でしたが、都市銀行の一斉検査や外資系金融機関の検査・摘発など多くの大事業をこなしました。あの頃は、マンパワーや専門人材の制約もありとても大変でしたが、みんな、この新しい組織を何とかしてやるという熱意をもってやっていました。小野  金融庁は、当時、よく“合衆国”と呼ばれていました。純粋培養された役人だけではない、弁護士や公認会計士の方々のような民間の専門家、また、かつて金融機関に勤務されていた金融のプロの方々とチームを組んで、うまく融合してやっている、そういう特徴がありました。これは、今でも続いていますが、外から専門性をとり入れて組織をまわしているというのは、他省庁にはない強みですね。氷見野  本当に小さな組織でした。国際室でいえば、英語ができる人が数人程度しかいませんでしたし、最初は英文タイプすらなかった。今ではだいぶ改善されて、国際交渉をする体制が整ってきました。発足当時は、国際会議の議長ポストは1つだけだったと思いますが、いまは10ぐらい担っていますし、やっと国力に近づいてきた感じですね。三井  当時は、金融危機の真っ只中で、私は金融危機対応室という部署に配属されました。毎週いくつもの金融機関の破綻処理を行うという戦争36

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