金融庁2014
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06̶̶金融庁の前身である金融監督庁が発足する1998年までの時代は、2人にどう映っていたのだろう。池田 私たちの入省日は、金融の自由化・機械化・国際化が進むことを視野に入れた新銀行法の施行日でもありました。また、1984年には日米円ドル委員会が開催されるなど、日本の金融市場の開放を求める外圧も高まり、スピーディな対応を求められていました。自由化や規制緩和が進めば、異なる業態間での従来の棲み分けの再調整が必要になります。例えば、銀行・証券・信託などの各業態の金融機関が他の業態の業務に参入できるようにするために、制度を見直すといった感じです。80年代は、こうした業態間調整に奔走していた印象が強いですね。入省間もない頃は係員として雑用に追われながらも、自分たちが関わった仕事が新聞報道されたりする中で意義と責任を感じていました。遠藤 80年代は、貿易黒字が続き“Japan as Number One”といわれていた時代でもあります。いま振り返ってみると、経済の先行きについては行政も民間企業も楽観的だった。私は課長補佐になって2年目に長期金融担当として日本興業銀行、日本債券信用銀行、日本長期信用銀行の監督業務に従事していましたが、バブル経済の崩壊を受け、現在は3行ともありません。当時は「日本発の金融危機」が起こりかねないという緊張感の中で仕事をしており、セーフティネットが不十分だと感じていました。したがって90年代は、金融秩序を回復させるために、ひたすら不良債権処理とセーフティネット整備に取り組んだ時代だという印象があります。池田 バブル崩壊で大混乱が起きはじめているころ、私はIMFに出向中で、ワシントンにいました。1992年に帰国することになったのですが、IMFのメンバーから「大変だな」と気の毒そうに言われたものです。戻ってからは銀行局中小金融課に配属され、甚大なダメージを負った中小金融機関等の対応にあたりました。担保の価値を大きく上回る融資とその不良債権化は、企業と金融機関双方に経営危機をもたらしました。バブルの傷の深さや大きさ、セーフティネットの不十分さを実感しましたね。遠藤 また、1996年からは「金融ビッグバン」と呼ばれる大規模な金融制度改革がはじまりました。バブル崩壊後の後処理という後ろ向きなミッションと、経済の活性化を企図した金融制度改革という前向きなミッションを、並行して進めることになった。不良債権問題から経営危機に陥った金融機関への、公的資金の注入については、国会やマスメディアでも大きく取り上げられ国民的な議論が巻き起こりました。いま振り返っても大変な時代でしたね。池田 金融ビッグバンには、大蔵省の証券局証券市場課で関わりました。経済成長期の日本は、欧米の先例をモデルにしたキャッチアップ型でものごとを進めていればよかった。しかし、先進国に追いつき成熟期に入ると、自ら道を切り拓く必要が出てくる。その一環として改革に乗り出したわけです。̶̶さらに1996年の年末には「(仮称)金融検査監督庁」の新設が閣議で了承される。池田 私は設立準備室で立ち上げに関わりましたが、メインテーマは「透明かつ公正な金融行政の実現」でした。バブル崩壊によって失墜した金融行政当局に対する信頼を取り戻すことが命題だったわけです。準備期間を経て、1998年に金融監督庁が発足。私は準備室からそのまま金融監督庁に移りましたが、セーフティネットの法整備や大手銀行の一斉検査実施など、発足当初から課題は山積していました。いまは1500名体制ですが、当時はわずか403名でしたから尋常ではない忙しさ。立ち止まって悩む余裕などないというのが実情でしたね(笑)。一方、小規模な新組織だからこそ、自身の存在意義を強く実感できたり、トップまで迅速に話を上げられたり、古い慣例に縛られることなく自由な発想ができたりと、それまでに経験したことのない充実感や自身の成長を感じていました。金融庁が生まれた日。【特別対談】FacetoFace

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